元祖・治部坂御幣餅(がんそ・じぶざか ごへいもち)
[御幣餅の由来]
今から六百十余年前、後醍醐天皇様の第八皇子の信濃宮 宗良(むねなが)親王様は、吉野朝廷の勢力挽回のため東奔西走されました。が、時に利あらず、南信濃の天竜東大河原という山深い土地でご逝去あそばされました。その御子 尹良(ゆきよし)親王様が父君の御遺志を継いで各地を転戦中、たまたまこの波合の里に御入りになられた時、土賊の伊那図書之助、飯田太郎、駒場小治郎等の多くの家来達に囲まれ、すでに宮の御命も危なくなった時、近藤治部という豪勇の家臣が宮の御そばへ駆け寄り「このままでは危ない事でございますにより、私が敵兵を別方面へ誘導致します故、その隙に宮様は安全な場所へ御避難なさいませ。ついては、敵をあざむく手段として.恐れ多い事でございますが宮様の御馬印金の幣束を私に下しおかれますよう」と申し上げ、宮様から馬印をいただき、それを高々と棒持した近藤治部は「われこそは宗良親王の一子、一品親王尹良なり、われと思わん者は出会へ」と呼ばわりながら、二十数名の部下たちと共に敵中へ踊り込みました。それを見た賊徒共は「それ、大将を討ち取れ、宮を生け捕りにせよ」と八方から押取り囲んでくるのを巧みにかわし、現在の治部坂まで敵兵を牽制しながら戦い進みましたが衆寡敵せず、近藤治部は乱軍の中に忠烈無双な戦死を遂げました。
一方、宮様は近藤治部の働きにより、一旦は血路を開かれましたが、またまた敵に囲まれ
おもひきや いく瀬の渕をのがれきて
この波合に しづむべきとは
の辞世の句を残して戦没されたのは応永三年三月です。今をさかのぼること六百十余年前のことでありました。あまりにも悼ましい御最後を悲しんだ里人が相寄り、尹良親王は浪合神社に祭祀し、近藤治部は殉死を遂げた場所に山の神として祀り、その名を永久に残す為にこの地を「治部坂」と命名しました。そして、尹良親王のご冥福を祈る為に、治部に下された金の幣束をかたどった餅を作り「御幣餅」と称えて治部山の神前に供え、そのおさがりを里人たちが賞翫(しょうがん)し、国家安穏、五穀豊穣の祈りを捧げる行事が今日まで綿々と続いております。
[元祖・治部坂御幣餅]
・くるみ味噌、さんしょう味噌 各300円/本
・御幣餅定食 800円 (漬物、小鉢、味噌汁、デザート付)

TOP
観光センター
イベント情報
アクセス/リンク
クーポン
安全報告書

